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    「まあ、それあ――」

    そして、少し横手に身をひきながら、しげしげと房一を眺めた。感慨無量、と云つた態ていであつた。

    小谷は房一に話しかけた。

    「おーい、火事はどこい行つたあ」こんな風に、口々に喚いていた。

    徳次はいつのまにか腕組みをしていた。あのあてずつぽうな、そゝつかしい、力りきんだ様子が現れていた。

    「さうかの。だが、さう云うても――」

    が、ひどく不機嫌になつた時にはこの円味が消えてしまひ、あのどぎつい部分々々がばらばらに突出し一層強くなるやうに感じられる瞬間がある。それは理由なく盛子を恐怖させるものであつた。

    が、或る日切つて落したやうに、例外だといふ風に、一日だけ何だか季節がためらつたやうに暑くも涼しくもない日があつたかと思ふと、次にはあの初秋の前触れである強い南風が吹いた。それは暑いといふよりは何だか蒸むし蒸むしする、騒々しい、遠く起つたかと思ふとすぐ間近かにやつて来、草木をなびかせ、捲き、吹きつけ、魂をゆすぶるやうな大きな小止みのない風だつた。それは風と云ふよりは何か素晴しく太いものを感じさせる大きな物音だつた。まさにその通り、はじめは笹鳴りをさせ、立木の枝を唸うならせ、戸をがたつかせ、埃を広い幅で駆けさせていたものが、しまひにはそれらをたゞ下界の騒々しさといふ中に押しこんでしまひ、圧おさへつけ、自分ははるか中空をもつと高い方を何ものにも遮さまたげられることなく悠々と巨大に傍若無人に吹き抜けて行くのであつた。それは風ではなく季節の通り過ぎる音だつた。やがて雨を伴ひ、あらゆる物の上にたゝきつけ、浸みこませ、溢れさせ、一日か二日でけろりとし、青い空をのぞかせ、それでもなほ切れ切れの雲を、疾はやい怪物のやうな想像しきれぬ形の雲をひつきりなく走らせて、おれはまだ完全に通り抜けてはいないぞ、気をつけろ、と知らせているやうに見えた。

    「いや」

    その場に居合せた道平を見かけても、小谷はあんまり紙衣裳に気をとられていたので、それが大病の後でやつと起き出した珍しい姿だといふことに心づかなかつた。が、大分たつて思ひ出した小谷は、

    房一の態度が穏かだつたので、相手はいくらか落ちついた。

    房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。

    老父の道平が卒倒した今はちやうど房一の忙しい時期だつた。と云ふのは、彼の患者の大部分を占めている農夫達は農閑期に入ると、それまでがまんをしていたために急に病気になつたり、ぶり返したりするのであつた。道平はここ三四日の間が危険期だつた。房一は殆どつき切りで、間には何度も家の方へ来る患者の診察にも帰らねばならなかつた。

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